共に生きる人に思いを寄せる静かなひと時
早朝、まだ街が静けさに包まれている時間。
子どもたちが寝静まる部屋からは、小さな寝息が微かに聞こえる。
その音が、なぜか心に触れる。
大切な家族がいる喜び。
守りたいという気持ち。
それらの思いを、胸の奥で受け止める。
そして静かに目を閉じる。
ただ、大切な人たちの幸せを願うために。
そんな「祈り」とも呼べるような時間が、ある。
祈りといっても、宗教的な所作ではない。
もっと素朴で、もっと人間的な営み。
「妻が、今日も心軽やかに笑えますように。」
「子どもが、豊かに人生を創造していくことができますように。」
「あの人が今日、どうか穏やかでありますように。」
そんなふうに、誰かの幸せに思いを馳せるだけで、不思議と自分の内側が整っていく。
経営者である自分、リーダーとして決断を背負う自分、
人を率い、社会に影響を与える立場の方であればあるほど、
「祈り」のような、「弱さに見える行為」を後回しにしてしまうかもしれない。
でも、本当に強い人は知っている。
静けさの中にこそ、人の在り方が映ることを。
この瞑想のひと時が、すべての判断の土台になることを。
なぜ今、慈悲の祈りなのか?
成果に追われ、人間関係に疲れ、ふとした瞬間に孤独を感じる──
そんな声を、私はこれまで何度も聴いてきました。
「何もかも一人で抱えている気がする」
「信じた相手に、裏切られた感覚が拭えない」
「信頼が壊れるのは一瞬ですね」
リーダーの役割を担う人ほど、こうした痛みを他人に打ち明けられずにいます。
ましてや、弱音を吐ける相手すらいない──そんな現実が、見えない孤立を深めています。
そして、多くの人が気づかぬまま「心の防御」を強めていきます。
誰かを信じた先に、また傷つくくらいなら、
最初から距離を取ったほうが楽だと。
けれど、それは本当に「楽」なのでしょうか?
心が硬くなると、愛も届かなくなる
信頼を失うのは、痛い。
だけど、信頼できなくなることのほうが、もっと心を深く蝕みます。
いつの間にか、人の優しさにも警戒し、
感情を出すことすら「弱さ」として処理してしまうように。
しかしながら、人間はひとりでは生きられません。
どんなに自立しているように見えても、
誰かのまなざしや、温もりを必要としている。
では、その硬くなった心を、どうやってほぐしていけばいいのか?
答えのひとつが、「慈悲の祈り(瞑想)」という在り方なのではないか──
私はそう感じています。
「慈悲」は、誰かを救う前に、自分を救う
慈悲と聞くと、「他者への優しさ」だと捉えられがちですが、
本来はもっと深く、もっと根源的な在り方です。
たとえば、こんな問いを自分に投げかけてみる。
「今、誰かを責めることで、自分を守ろうとしていないか?」
「本当は悲しかったのに、怒りで誤魔化していないか?」
「もっと、誠実に向き合ってもよかったのではないか?」
慈悲とは、赦すことではありません。
忘れることでもありません。
むしろ、傷ついたことを誤魔化さずに見つめ、
その傷を抱えたままでも誰かを大切にできる
そんな「本来の強さ」に立ち返る営みです。
祈るという行為は、宗教行為ではなく、
「誰かの幸せを心から願うこと」。
それは、決して弱さではなく、
武装を解いても倒れない、しなやかな在り方。
成果でもなく、肩書でもなく、
役割でもない「人間本来の自分」に戻る時間。
許せない相手がいた。それでも進むしかなかった
かつて、どうしても許せない相手がいた。
心に深く爪痕を残した人物だった。
「なぜ、あんなことを…」
その問いが頭の中でループし、怒りと悲しみが交互にやってくる。
いたたまれない気持ちと苦しさが渦巻いて、眠れない夜もあった。
時間が解決すると言うけれど、時間は何もしてくれなかった。
まして、相手が謝ってくれるわけでもない。
むしろ「許せない」という感情に、自分自身が縛られていくようだった。
そんなとき、ふと出会ったのが、ブッダの「慈悲の瞑想」だった。
慈悲の祈り(瞑想)の言葉
私が幸せでありますように
私の悩み苦しみがなくなりますように
私の願いごとが叶えられますように
私に悟りの光が現れますように
私が幸せでありますように(✕3回)私の親しい人々が幸せでありますように
私の親しい人々の悩み苦しみがなくなりますように
私の親しい人々の願いごとが叶えられますように
私の親しい人々にも悟りの光が現れますように
私の親しい人々が幸せでありますように(✕3回)生きとし生けるものが幸せでありますように
生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように
生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように
生きとし生けるものにも悟りの光が現れますように
生きとし生けるものが幸せでありますように(✕3回)私の嫌いな人々も幸せでありますように
私の嫌いな人々の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々の願いごとが叶えられますように
私の嫌いな人々にも悟りの光が現れますように
私を嫌っている人々も幸せでありますように
私を嫌っている人々の悩み苦しみがなくなりますように
私を嫌っている人々の願いごとが叶えられますように
私を嫌っている人々にも悟りの光が現れますように
生きとし生けるものが幸せでありますように(✕3回)
(出典 『マインドフルネスの教科書』藤井英雄著 クローバー出版)
「私が幸せでありますように。あなたが幸せでありますように」
最初は、正直ピンとこなかった。
なぜ“あの人”の幸せなんか願わなきゃいけないんだ。
そう思っていた。でも、どこかで「このままでは自分が壊れる」とも感じていた。
だから、試してみた。
静かに目を閉じて、呼吸に意識を向けながら、こう唱える。
「私が幸せでありますように」
「私の嫌いな人が幸せでありますように」
最初はまったく気持ちが追いつかない。
けれども、何度も、何日も繰り返しているうちに、
心の奥のわだかまりが、少しずつ溶けていく感覚があった。
許すことは、相手のためではなく、自分のため
慈悲の瞑想は、誰かを無理やり好きになるためのものではなかった。
誰かの行いを正当化するためのものでもなかった。
ただ、自分の心に溜まった怒りや悲しみに、
そっと手を当てるような、そんな祈りだった。
「私が幸せでありますように」
そう唱えるたびに、自分の心の傷に、自分が寄り添っていた。
そして「私の嫌いな人が幸せでありますように」と願うことで、
その人の存在感が薄らいでいき、思い浮かべても、淡い記憶のようになっていった。
許せない相手がいるすべての人へ
許しとは、感情の決着ではなく、意志の選択なんだと気づかされた。
そして、祈りはその選択を支える灯火だった。
人は誰しも、誰かに傷つけられた経験を持っている。
だとしたら、私たちは皆、慈悲の祈りをする資格がある。
それはきっと、弱さを肯定するためじゃなく、
本当の強さを取り戻すためのものなのだと思う。
対立する人の幸せを願うとき、魂は広がり始める
「私が幸せでありますように」
そう願うとき、人はようやく自分自身を大切にする準備が整い始める。
優しさとは、強さだ。
自分をいたわる声が、世界との関係性を静かに変えていく。
でも、もっと深い変化が起きるのは——
「私の嫌いな人・私を嫌っている人が幸せでありますように」
「生きとし生けるものが幸せでありますように」
こう祈れるようになったとき。
対立している相手を思い浮かべて、
その人の幸せを願うことは、簡単なことではない。
でも、だからこそ意味がある。
憎しみを手放すために祈るのではない。
正しさを手放すために祈るのでもない。
ただ「人間としての在り方」を整えるために祈る。
自分の内側にこびりついた硬さ、
プライド、嫉妬、怒り——
それらを否定せず、ただ静かに眺めて、
その上で「それでも、幸せであってほしい」と願う。
この祈りの習慣を持つと、
目に映る風景が少しずつ変わってくる。
たとえば、職場や取引先で
誰かの苛立ちに巻き込まれそうになったとき——
心のなかでこうつぶやいてみる。
「この人が幸せでありますように」
すると、少しだけ自分の反応が変わる。
ほんのわずかでも、自分のなかにある怒りや恐れがほどけていく。
祈りは、状況を変えるのではなく、
その状況に向き合う「心の姿勢」を変える。
大切なのは、うまくやることじゃない。
「敵」にも祈れる自分でいること。
人を動かす影響力の源泉は、
どれだけ深く相手の存在に祈れるか、にあるのかもしれない。
今日もまた——
「私が幸せでありますように」
から始めよう。
そして、いつかは「私と対立する人が幸せでありますように」と
自然に祈れる自分に出会えたなら——
それは、人生の深みを一段上がった証かもしれない。
自分自身に慈悲を向けてほしい
今日も誰かのために奔走し、
誰かの期待に応えようとしているあなたへ。
「もう、十分がんばってるよ」と、
自分自身にだけは、そう声をかけてあげてはどうでしょうか?
信頼が壊れることもある。
人間関係に失望することもある。
でも、その度に、心を閉ざすのではなく、
少しだけ深く祈ってみる。
それが、リーダーとしての「人間力」を高める、最初の一歩なのかもしれません。
実践のすすめ
忙しさに飲み込まれていると、心の奥にある「誰かを大切に想う気持ち」が、知らぬ間に置き去りにされていることがあります。
けれど、そんなときほど、自分の内側にそっと火を灯すような習慣が、必要になるのかもしれません。
今回ご紹介したのは、「慈悲の祈り」。
やり方は、いたってシンプルです。
たった数分、出勤前や就寝前。
心の中でそっと祈るだけ。
たとえば、こんなふうに。
「私が幸せでありますように」
「私の心が安らかでありますように」
「私の身体が健やかでありますように」
まずは、自分自身に向けて。
「自分なんて…」と否定しそうになるその心にこそ、やさしく手を添えるように。
これは、なにかを達成するための習慣ではありません。
自分を責めないでいるための、心の作法。
心がざわついているときほど、言葉をゆっくり味わってみてください。
読む、唱える、ただ思い浮かべる…どれでも構いません。
できるときに、できるだけでいい。
私も初めは、本に書かれた「慈悲の祈り」を見ながら、心で念じるだけでした。
一瞬にして、何かが劇的に変わるわけではないけれど、
日々の中で、少しずつ「優しくなれる余白」が広がっていった気がします。
リーダーであれ、親であれ、パートナーであれ――
「人の前に立つ人」は、とかく自分を後回しにしがちです。
だからこそ、まずは「自分の幸せ」を願うこと。
それがまわりを照らす力になる。
祈りとは、心を整える技術であり、
人としての器を広げる「ツール」です。
あなたのペースで、
あなたらしく、
その一歩を始めてみてはどうでしょうか?
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